富 士見丘町会のエリア
富士見丘町会は、井の頭 線の富士見ヶ丘駅を中心に、高井戸西1丁目〜3丁目、久我山2丁目、久我山5丁目のエリアに広がっています。
ちなみに「富士見ヶ丘」という地名はありません。駅北側の丘から富士山が見えたことから「富士見ヶ丘」という駅名が名づけられたという説があ ります。町会に加入している世帯数は約700世帯です(以下、地図をクリックすると大きな地図が見 られます)

富 士見丘町会エリアの遺跡
昔から神田川沿いに 人が住んでいたため、町会エリアには多くの遺跡が分布しています。
1)縄文・弥生 2)縄文 3)旧石器・縄文、近世 4)縄文 5)縄文、古墳 6)旧石器・縄文・古墳、中世、近世 7)旧石器・縄文・古 墳 8)旧石器・縄文・中世・近世 9)縄文 10)縄文 11)縄文 12)縄文・古墳、中世。
明 治時代の富士見丘町会エリア
1896年(明治 29年)の富士見丘町会付近の地図です。マークが富士見ヶ丘駅のあたり。駅の南側 に神田川、その南に玉川上水が流れています。画面右下の「天神社」が今の第六天神、北原の南側の東西に走っている道が、今の人見街道です。江 戸時代、このへんは幕府領で、住民には玉川上水の手入れなどが課せられていたということです。
大 正時代の富士見丘町会エリア
1917年(大正6 年)。上図から20年ほど経っていますが、ほとんど変化がありません。この時代は、今から考えると時代の流れがゆっくりしていたのではないか と思います。
昭 和初期の富士見丘町会エリア
1927年(昭和2 年)。上図から10年後です。大きな動きは、浴風園ができていることと、富士見ヶ丘駅前通りの前身と思われる道路ができていることです。
戦 争中の富士見丘町会エリア
1944年(昭和19年)。上図から17年 後、敗戦少し前です。中央付近(今の遊び場110番)に高射砲の陣地があったそうです。井の頭線は完成済みですが、名前が「東京急行井頭線」 です。富士見ヶ丘駅前通り・環八通りが開通しています。
オ リンピック後の富士見丘町会エリア
1965年(昭和40年)。上図から21年後 です。前の年に東京オリンピックがあり、日本の戦後復興が加速していた時代です。富士見ヶ丘駅周辺にも住宅が増えています。井の頭線の表記は 「京王帝都電鉄井の頭線」になっています。
1980 年代の富士見丘町会エリア
1983年(昭和58年)。上図から18年後 です。中央自動車道が開通(1976年)し、高井戸駅のそばに杉並清掃工場が完成(1982年)しています。これで、現在の町会エリアのレイ アウトがほぼ完成したといえます。
現 在の富士見丘町会エリア
2019年(平成31年)。上図から36年 経っていますが、街のレイアウトはそれほど変わっていません。やがてやってくる人口減少の時代を控え、この街がこれからどのように変化してい くのか、見届けたいと思います。